「お父さんの言うことを聞いていればお前は幸せになれるんだよぉ。」
そう言われて、幸せになったことなんて一度も無かった。それでも父の言うことはいつでも絶対だった。
全く趣味じゃない黒色のワンピースを着せられた私は父に手を引かれてホテルの長い廊下を歩いていた。

父は私に何かをさせる時、彼の容貌からは想像できないほどの甘ったるい声で名を呼ぶ。視線を上げると、吐き気のするほど甘い顔をした父がいた。
「お父さんの言うことを聞いて、いい子にするんだよぉ。そぉしたらお前もお父さんも幸せなんだぁ。」
もう中学2年生なんだから、そんな幼い子供に言い聞かせるような言葉はいらない。吐き気がした。私は父の視線を振り解きたかった。父の温くて湿った指を、自分の手から離したかった。逃げ出したかった。けれど、父の甘い声は、いつでも私の体へねったりと絡み付いて決して離れないのだ。だから、私は何一つ出来ずに、父の濁った瞳へ頷いた。


父はおよそ合法でない世界に生きている男だった。麻薬や銃を日本へ密売している、小さくて卑怯な男だった。こそこそと、鼠のように、小金を稼いでは喜んでいた。お金を数えるために丸まった父の背中はこの世の何よりもみすぼらしかった。ところが今私の隣に居る男は高級なスーツに身を包み、その身から溢れる汚らしさを忘れたように背筋を伸ばし堂々と歩いてる。男はもう、小金に執着することはなくなっていた。私という道具を得た父は、前以上に貪欲になっている。父が私の能力を知ったのはいつだったろうか、霧がかかったように曖昧な記憶を瞼に浮かべるが、得られるものは何も無かった。彼は自分の娘が嘘を見抜けると言うことを知るや否や、その日から娘は彼の金のなる木だった。それまでは、薄汚いティシャツを着させていたのに、商売道具になってからはどこかのお嬢様に間違われるほどの豪華な服を着させられた。私の仕事は極めて簡単であった。ホテルの一番高い部屋へ父に手を引かれて入る、そして知らない人間の前へ座ってぼんやりとした笑顔で挨拶をしていると、やがて目の前へ白や黒の粉や書類、兎に角いろいろなものが運ばれる。そして、その物たちの名前が、父の読み上げるものと一致しているかそうでないのかを告げる。すると目の前の人間が驚いて、父は満足そうに煙草を蒸かしながら、下品に微笑むのだった。父は私の力を疑っていなかった。だから何も聞かれなかったが、私自身、自らにどうしてこのような力があるかは知らない。ただ何となく分かってしまうのだ。


今日もやはり、ホテルの一番高い部屋の前で父は止まった。長い間エレベータに乗った記憶が薄ぼんやり戻ってくる。ここは高い高いビルの、一番上であったことを思い出した。ついさっきの事柄が、何年も昔のことのように思い出されるのは、何時の頃からだったろうか。
「今日はとりわけ大事なだぁいじなぁ、お客様だから、いい子にするんだよぉ。」
男のおぞましい程糖度を含んだ声に我に返った。父は私の頭を二三度そっと撫でると、ノックをしてから、私の手を引いて中へ入った。そこには黒い服の男が二人。一人はこちらに背を向けて、窓の外を眺めている。金髪の、長い髪の男だ。窓の外には都内の高速ビルが、暗闇の中、燦燦と輝いていてまるで宝石のようだと思った。
「こんにちは。」
父は笑う。サングラスをかけた男が物珍しそうに私を見た。もう一人の男は興味が無いのか背を向けたままである。私は立ったまま、男に笑っているのか笑っていないのか分からないような顔を向け、挨拶と名前を、出来る限り可愛らしい声で喋ると、父は満足したようだ。
「これが噂の少女ですか。」

「えぇ。この娘の前ではどんな嘘でも無意味です。さしずめ人間嘘発見器といったところでしょうか。」
父は快活よく笑った。ははは、と静かな室内へ男の下卑た笑い声が響く。しかし、明るい声とは裏腹に父の禿げた額には汗が薄っすらと滲んでいた。この図々しくて卑しい男が緊張するとは、珍しいことである。そういえば、父はこの男たちのボスと、コネクションを持ちたいと良くぼやいていた。いつもよりも愛想の良い父の横顔を眺める。繋がれた手のひらへ私の物じゃない汗がうっすら溜まっていた。彼らのボスは余程大物なのであろう。 不意に繋いでいた手が離された。汗が指先を伝わって床へ落ちて、カーペットに染みを作った。そのまま背中を強い力で押されて、父の前へ不自然な体勢で出ることになった。驚いて後ろを振り向けば、男の、この世で一番醜い、笑い顔があった。背筋が、ぞっとした。
「これを、貴方のボスに差し上げましょう。」
自然と目が見開いた。父の言ったことが信じられなかった。つま先から力が抜けていくようだった。その時後ろを向いていた男がこちらへ振り向いた。ながい金髪の合間から見える、切れ長の冷たい緑の瞳。目が合った瞬間、足ががたがた震え出した。
「娘を置いて出ていけ。」
男は言う。父はこれからよろしくお願いします、と、部屋から出ていった。私に一瞥もせずに。ドアの閉まる音が、耳の奥で何度も何度も、反芻される。
「ウォッカ、お前はドアの前だ。」
ウォッカと呼ばれたサングラスの男も部屋からいなくら、金髪の男と二人きりになった。がたがた震える私へ男は近づくと、ゆっくりその口角をあげた。こちらへ伸ばされる指先、ゆっくり、優雅に冷たい言葉が、男の唇から、生まれる。頬を触れる、氷のような温度。至近距離の緑色の、冷えた、瞳。激しく鳴り響く自分の心臓の音だけが、耳に聞こえていた。




さよならの出来る子ども







20090221
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