雨粒が頬を叩く。走ったから、樹に買ってもらったレインコートに泥が跳ねてしまった。追い詰められたカップルの顔が恐怖に歪んだ。ホラー映画でも惨殺されるのはカップルと相場が決まっている。きっと彼らが睦言を囁くに相応しい場所を、求めさまようためだろう。しかし運の悪い人間たちだ。たまたま私たちの居場所を知ってしまった人間、本当に運がない。私の従僕の手の中で苦しそうに蠢くそれをみた感想はそれだけだった。人間を殺すことに躊躇がない。妖怪を殺すことにも。それは私がどちらにも属していないからだろうか。後ろで刃霧が早くしろ、と呟いた。


私が魔界へ来たのは、言葉もまだ喋れない頃だった。意図したわけではなく、たまたま魔界へ来てしまったらしい。らしい、と言うのは私にはそのときの記憶がない。現場に居合わせた樹の話を聞いただけだ。
当然樹はいきなり現れた私に驚いたが、持ち前の好奇心からか私を育て始めたのだ。むしろそっちの方にびっくりだ。何はともあれ、種族の差をものともせずに今日まですくすく育ってきた。樹は不気味な妖怪で、なにやら妖しげな手を操る。一方、言うまでもなく私はただの人間なので、特に何も出来なかったのだが適応力とは恐ろしいもので、年を重ねる毎に力は強くなり、今や妖怪と遜色ない存在になってしまった。生きるためには力が必要なのだ。今では樹のように妖しげな術を、妖怪以上に使うことが出来る。樹はにやにやしながら、化け物じみてきたなと喜んでいる。

そしてその力で、いま、2匹の人間を、握りつぶしているところだ。
発現する能力というのは、育った環境に左右される。別に、私のそれは樹と似たものではない。影響を受けているのは否めないけれど。
当時、彼は私が魔界で育つわけがないと高をくくっていた。魔界に飽きていた樹の、しばしの暇つぶしの予定だった。しかし、薄い膜を張り、彼の予想を超えて生き続ける不可思議な生き物に心を動かされたのか、興味本位で子育てを始めた。魔界で私は育っていった。障気の影響か、体はなかなか成長せず、見た目は10歳前後のまま、30年の歳月が流れていた。人間が歓喜して迎合するロリばばあに進化したのだ。やがて樹は私を連れて人間界へと向かった。
樹は人間界では、一人で出掛けるようになった。それまで樹の傍から離れたことのなかった私はひどく動揺した。「本当は陰でこっそり見ていたんだ。お前がどういう反応をするか興味があってね。」そう言ってニヒルに笑う樹を殴りたいと思ったのは一度や二度ではない。一人にされた私は、やがて沼地に安心を感じるようになった。樹に似た沼の緑色が私の心を落ち着かせてくれたのだ。一人の時は沼のそばから離れなくなった。ずっと近くにいたかった。結果、私は沼を従属させ、創造し、支配することにした。沼は目のない魚に姿を変え、私の周りを徘徊する。私の従僕。魚は粉々になったわたしたちの敵を飲み込んだ。


忍とは、樹を介して知り会った。私と忍は見た目だけは同い年のようだった。父の美しいけもの。彼は、私と同じく、樹のペットなのかもしれない。忍が私を見てなにを考えたかはわからないが、私は父親の恋人を紹介されているような気持ちだった。複雑な顔をする私へ、忍は手を差し出した。「よろしく。」忍もまた、言葉に出来ない表情だった。学生服を身に纏った忍は若く、清廉な雰囲気がした。手を握ると、血の匂いが鼻腔をくすぐる。悪くはない。後ろで従僕が低い声で唸った。
忍の複雑な表情の理由を知ったのは、その後すぐであった。「樹から話は聞いてたんだが、本当に人間なんだ。」人間よりも妖怪の、瘴気の匂いが染みついた私へ忍の目が鋭く光ったのを覚えている。ぞわり。今までに経験したことのない、感覚に肌が粟立った。そう、人間なのに、本質は妖怪に近い私に忍は敏感に反応したのだ。「は正真正銘の人間さ。」樹が答えた。愉悦を含んだ声に腹がむしゃくしゃした。そしてその声に、安堵した自分にも。「一応、人間だよ、あまり自覚はいないけれど。」悔し紛れに、私は笑う。「正直、自分が人間とか妖怪とか、気にしたことはないんだ。」忍が興味深そうに私を眺めた。その瞬間忍を弟のように、息子のように思った。それから忍と私は樹が考えていたよりも早くに打ち解けた。純粋無垢で残酷な忍は、私に樹と同じ感情を抱かせた。忍は私に、憧憬を抱いていたのかもしれない。



従僕とともに住処へ戻ると、忍がいた。彼は雨で泥だらけになった私にシャワーへ行くように促した。刃霧は途中でどこかへいってしまったらしい。
シャワーを浴びて戻ると、ドライヤーを持ったナルが手招きをしていた。ニコニコしている。ナルは私の髪を乾かすのが気に入っている。タオルで水気をとり、櫛で解かされる。目を瞑って、待っていると熱風が髪に当たった。「の髪はさらさらで、羨ましい。」「ナルも伸ばせば?」「え、似合わないよう。」ナルは楽しそうにドライヤーを動かしている。邪魔だから髪を切りたいのだが、ナルのせいで一向に短く出来ない。私の髪を散髪するのはナルの役目だった。髪型をアレンジするのも。最初は不器用で下手くそだったのに、今じゃプロ顔負けだ。「わ、私、なにかした?」気がつけば泣きそうな顔でナルがこちらを見ていた。眉間に皺が寄っていたのを、不機嫌のサインだと受け取ったらしい。「違うよ。」抱きしめると安心したようだ。肩に顎をのせる。疲れた、と呟くと膝まくらをしてくれた。固い膝に頭を埋めながら、夢の世界へまどろんでいく。

目を開けると、ナルはいなかった。代わりに忍がいて膝の上の私へ微笑んだ。髪を撫でる忍の掌。愛おしそうに細められた目。
「お前は不思議だよ。人間でも、妖怪であるんだから。」
忍がそういうようになったのは、あの一件以来であった。最初から彼は私を敵か味方か判断しかねているのだ。初めて出会ったときのあの、一瞬の殺意を思い出すと鳥肌が立つ。起き上がろうとするのを忍の大きな掌が制した。その手が私の頭を、喉を撫でるので、ごろごろと喉が鳴った。今では私が、忍のペットのようだ。上から眼差しが降ってくる。ニュートラルな存在への、羨望の目。忍がそんな顔をするようになったのも、あの日からだった。忍の太い首へ腕を回す。そのまま首筋に顔を埋める。「些細な問題だよ」本心からの言葉だった。人が考えるほど、その違いを気にしたことはない。関係ないのだ。どちらであっても、どちらが何をしていても、私は私なのだ。言葉の代わりにごりごりと額を押しつけていたが、忍の手に遮られた。彼の真っ直ぐな視線が私を捉える。そんなに純粋だから、困っちゃうんだよ。瞳の底で淀む暗澹の色は樹に似ている。唇を重ねると、ナルから貰った飴の味がした。「俺はお前がうらやましいよ。」微笑んだ忍の顔には陰が射していた。


#氷上のバレリーナ

20110628
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